「風の谷」という希望について
最近「イシューからはじめよ」の著者である安宅和人さんの新刊である、[「風の谷」という希望]を読んでいます。
この本は、集約化されて単調になる都市or廃れていく田舎の二極化が進む日本を憂い、そうではない未来を一つの選択肢として残すべく、現状の課題の考察、「風の谷」の在り方、そして風の谷が成り立つためにこれから行っていくことを体系的に述べています。
都市でもない、田舎でもない、人が沢山いるのではなく、かといって人ひとりいないわけでもない。そこに住まわなければいけない決まりもなく、ただ時には協力し合って生活する。住み続ける必要もなく、週末に帰ってきてそこで暮らし、週末が終わればまた自分のもう一つの生活の場へと戻る。そんな場所が風の谷です。
広辞苑より分厚いんじゃないかってくらい暑い本なので、まだまだ読みきれていませんし、自分がこれまでに興味を持っていなかった領域の話となるとついていけないこともあり、ゆっくりではありますが一歩一歩叶えたい一つの未来の在り方を読み解いています。
安宅さんが構想している「風の谷」の具体的な話をしているとっても長くなりますし僕がまだまだ理解しきれていないこともありますので、今日はこの本を読む中で考えたことや感じたことを川崎学舎での生活と結びつけながら話していこうと思います。
「想像と創造」
近頃、テクノロジーの進化によってこれまでは絶対にできそうにない事、できるかもしれないけど圧倒的に環境次第な事が次第に出来るようになってきているように思います。
例えばAIの進化によってコーディングの学習を全くしたことがない僕でもコーディングの技術を使って自動応答botのプログラミングを完成させられたり、デザイナーでもない人が画像生成AIによって自分好みの画像を生成できたり。社会的な側面でも、裕福な家庭でなくても、国の補助金によって私立に通うことが出来るようになったり、インフラの発達で日本中に半日以内で旅することができたり。そしてこうしたテクノロジーの進歩によって自分が生まれた国ではない場所で、自分の知らない言語が話されている場所で生活をすることが出来るようになったり。
出来ない事が出来るようになるスピードも日に日に速くなっています。
10月の頭にAirPods3が発売され自動翻訳の基盤となる技術が搭載されたと思えば、来年の3月には眼鏡型でスクリーン上に情報が共有される自動翻訳デバイスが発売されるようです。
こうして、これまで「これをやってみたい」という[想像]があっても、テクノロジーの限界などによる現実的で物理的な制約のせいで実現できなかった、世の中に出せなかった事が、異次元なスピードで進むテクノロジーの進化によって「やってみたかった事」が[創造]できる、どんどん世の中に出せる世界に変わってしまいました。
この、できなかった事がテクノロジーや文化の発展によってできるようになる世の中では、「想像し、未来の在り方を考える力と同等、いやそれ以上に自ら創造する力」が求められるようになってくると思うんです。
残酷な未来の到来
一方で、テクノロジーの発展と、今現在世界に蔓延っている価値観の影響力でもって、地球はこれまで以上にないくらい多様性を失い、動きの少ない冷酷な未来へと進んでいくことを危惧しています。
これまでの世の中では、与えられたものをいかに完成度高くこなせるかという価値観が大半を占め、与えられたもの[=世の中の流行]を消費し続ける生活が中心でした。
さらにテクノロジーの発展により、人と人とが共有できる情報量も増えてきました。
手紙のやり取りから始まり、電話、メール、ライン、そして今の時代は位置情報、そしていずれは自分の遺伝子情報や自分の思想、感情・体の状態まで共有できる時代。
圧倒的に他者であるはずの人と人がこれまで共有できなかった情報が共有できる世界になってきています。
この二つの掛け合わせによって、人類が同じ情報を持ち、同じ価値観で暮らす、超都市のようなものが出来上がっていくわけです。
栄養価が安定している似たような食事を摂取し、効率化された居住空間で生活をし、AIやロボットで置き換えられなかったわずかな仕事を行なっていく。そんな未来が待ち受けています。
このような未来、悪いことばかりではないと思います。
確かに「都市」はとっても効率が良い場所ではあるので経済の成長、医療や交通機関といったインフラの普及、エネルギー効率のことを考えれば便利極まりない場所です。
ですが、全てが統一されていく世の中、この未来を私達は望むでしょうか?
残された一つの希望=「風の谷」
僕の答えは『NO』です。
30年後までに、日本の自治体のうち、高齢化などが原因で消滅する可能性のある都市は全体の50%と言われています。
また、同じく30年後には9割の土地は住めなくなってしまい、僅かに残された1割に満たない土地で私たちは生活せざるを得なくなっていきます。
海が綺麗で、小さな漁港があって、近くの定食屋さんの定食が美味くて、時間がゆったりと流れていて。
そんな素敵な場所が30年後には廃れてなくなってしまうのです。いきたいと思っても、消滅した町に向けた道路が補修されることもなく、その町への交通網も途絶える。
こうしてどんどんありふれていて効率が良い場所だけが残っていく、そんな未来に僕は生きたくありません。
しかし、現状多くのこうした小さな自治体は人口が減っているだけの問題だけでなく、経済的にも赤字の状態である場合が大多数を占め、その赤字を埋めるために国から出される補助金に頼り切っている状態です。
いくら素敵な町だから、残しておきたいからといって、その町が30年後も存続するための機能が残っていないのが事実です。
これを「風の谷」では「都市からの輸血」と呼んでいます。
僕がここで待ち受ける未来に『NO』と叫んだとしても、この未来へと向かう流れを堰き止めることは愚か、変えることもできません。
都市の効率さ故に発展してきた背景もあるため、都市や、都市からの産物そのものを完全否定し、それなしで生活することも考えていません。
しかし、僅かながらこの都市化が進んでいく未来の片隅で、「風の谷」のような場所を作る取り組みはできると思います。
僕の想像と創造
それは、自身で経済や人、エネルギーの循環を回しつつ、歴史・テクノロジー・豊かな自然が共生する「風の谷」と名付けられた場所です。
さて、ここで今日のところは話をやめておこうと思います。何故ならこれからやっと「風の谷」の在り方の議論が進んでいくわけで、、書籍ベースで考えると、僅か10ページの部分しか解説できていないからです。笑
僕の将来の夢は世界のどこかににそっと佇む「風の谷」を作りあげていくことです。
そして今僕の目の前にある川崎学舎にて、教育の場として、「風の谷」のような場所を作り上げたいと思っています。
僕はあくまでも都市と風の谷の共生という未来を望んでいます。だからこそ、「受験勉強」といういわゆる都市で与えられたことと、「想像と創造」というこれからの未来を創り上げていくことの両立・共生ができる場所を川崎学舎で作っていきたいと考えています。
将来的に、講師・生徒が同じ場所で毎日勉強するのではなく、都市と風の谷を行ったり来たりしながら生活する、そんな環境を創り上げたいと考えています。
生徒は平日は都市で暮らし勉学や都市での暮らしの恩恵を受け、土日になったら風の谷[=田舎?]に移動して自然と対話しながら生活ができるように。
講師は週5同じ場所で働くのではなく、週3は都市で川崎学舎の講師として、週2は風の谷で、循環に必要な仕事や生活をする。
そんか場所が創れたら、今よりももっと人は人に優しくなれるだろうし、今よりももっと人は自分のやりたいことに目掛けて進んでいけるだろうし、今よりももっと人は人らしく生きていけると思っているんです。
さいごに
この年になって、こんなにもやりたいな、成し遂げたいなという事に出会えました。
やれることは少しかもしれないし、世界からみたら自分という小さな人間はこの世界の微少な揺らぎに過ぎないかもしれないけど、「僕は僕だ」と言いながら、僕にしか歩めない人生を歩む、そう思いながら生きることが人として人らしい生き方なのかも知れない。
そんな夢を見ながら日々を過ごしてみたいと思います。
今村
